「あの薬」がなかったら、世界の運命は変わっていた 「世界史を変えた薬:佐藤健太郎」講談社現代新書
たまには教育とは関係ない読書。
アマゾン以外に、自分はお金の節約のためもあってブックオフなどをめぐって本を買うことがあります。その時ピン!と目に止まった本がこちら。
なみお家は医療関係者が多いこともあって、私も少し医療にも興味があります。
医薬品にお世話にならない人はいないと思います。お腹が痛い、熱がでたなどなど。私も最近では腰痛をこじらせて整形外科の薬に頼っていました。
この本で考えさせられるのは、医薬品というものは、先人の多くの犠牲の上に成り立っているありがたい遺産であるということ、それらはたまたま”偶然”に発見されているということ、「今まで効能がある」信じられていたものが今では考えられないようなものでありふれていること・・・などなど挙げればきりがない。
また、そのエビデンスがはっきりと示されたにも関わらず、浸透していかなかった医薬品もあった。
お薬の歴史
医薬の歴史は非常に古く、その歴史は「人類発生の前からあった可能性があった」と言う。
南米に住む「オマキザル」はヤスデ(虫)を体にさすって、ヤスデの放出する科学物質を体に塗りつけることで、蚊などの昆虫を追い払っていたそうだ。つまり、人がサルだったときから医薬と名がつかなくとも、その効用をうまく利用して生存競争を勝ち抜いてきた。
ヤドリバエという虫もある種の毛虫に卵を産み付けて幼虫を体内に寄生させ、成長させる。蛹となり成虫になった瞬間、宿主の体をやぶって外界に出てくる。モンシロチョウの幼虫に寄生する「アオムシコマユバチ」を想起させるが、まさにこれと同じである。
しかし、この毛虫もだまってはいない。生存するために普段は食べないドクニンジンなどの毒性植物を食べることによって生存確率を上げることに成功した。虫も薬草の効用を頼って、生存してきたというわけだ。
筆者が言うに、医薬品の歴史は
「いったいなぜこんなものが効くと思ったのかのだろうか」と、頭を抱えたくなるような事例に満ちている。
という。
古代メソポタミアでは、動物の糞、腐った肉や脂、焼いた羊毛、豚の耳垢などの汚物がその主力であった。これらは”病気が悪魔の仕業”と考えられていたことに由来する。人間に対する今でいう手術にしても、頭蓋骨に穴を開けて悪魔を追い出していた。
水銀はその銀色に輝く液体という外観から神秘的な力を秘めた物質として考えられていた。病毒を排出を促すために、発熱し、涎を垂れ流す状態になるまで投与されていた。作曲家のシューベルトやシューマンも直接の死因は水銀中毒ではないかという説があるという。
このように医薬は人類と疫病の戦いの歴史であり、先人の多くの犠牲の上に成り立っているありがたい遺産であることを実感させられる。お薬は大切に飲もうと思ったところである。
医薬はエビデンスベースで語られるようになった。教育は?
効き目がなく、害毒の方がずっと強かったかつての「医薬」は、皇帝などの要人の命を奪いさえしながらも、その効用が疑われることなく何千年、何百年と使われ続けていたのだという。これについては筆者は
「我々は、効いてもいない薬をなぜか「効いた」と感じてしまう、不思議な傾向を持っているらしい」
と述べるに留まっている。
これは「公教育の構造的転換」を迫られている今の教育にもあてはまるところがあると私は思っている。
病気は、先にも述べた通り、悪魔の仕業という考えられていた。それから感染症などの自然事象が原因であるというエビデンスが広がったことによって、第一歩を踏み出した。現代も行われている臨床試験が初めて行われたのは1747年であった。ジェームズ・リンドが壊血病患者に対して違う食事を与えて、どの食べ物が一番効力があるかを試したのが初めてであったという。
教育はどうだろうか。ペーパーテストでその指導法によって子供達にどれほど知識が定着したか、そのエビデンスがある程度測られるが、子供達の知識量がその指導の是非を問うものではないことは周知の通りだ。学習に対する関心・意欲に始まり、「対人的なコミュニケーション能力や自身の感情をうまく操る能力といった「非認知的」な面での個人の評価の違いが、その後の子供達の地位や報酬に関係するようになっている」という指摘もある。(ハイパーメリトクラシー) (本田由紀 2005)
多元化する「能力」と日本社会 ―ハイパー・メリトクラシー化のなかで 日本の〈現代〉13
- 作者: 本田由紀
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2005/11/01
- メディア: 単行本
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ただ、関心・意欲や対人的コミュニケーションの力などをはっきりと測るような尺度は(少なくとも私の中では)見当たらない。そして、それらを育成するための指導法なども多く開発されているが、子供達にどれほどの変容が見られたかというのは指導者の主観によるところが大きいと思う。子供達の10年後20年後どうなっているのかという追跡調査をもってしてもだ。このように教育はエビデンスベースで非常に語りにくい性格を持っていると思う。”よい”と思う指導法があったとしても、だ。
今行っていることが、来年、10年後、100年後の社会から見たら「ありえない」とか「考えられない」と語られる可能性は十分にありうると思う。
効いていない薬がなぜか効いたと感じてしまう。同じように他者からみたらちっとも子どもたちの変容が見られない、しかし自己満足で「子供たちによい」と決めつけてはいないだろうか。同じように、アクティブ・ラーニングやプログラミング教育、道徳の教科化は子供達に何をもたらすのか、基本的なことだが、自己内省が必須である。あくなき試行錯誤の戦いが始まろうとしている。
「いいもの」が必ず広がるとは限らない
15世紀の大航海時代に海の男たちが恐れた病に「壊血病」がある。
「この病気の原因はビタミンCの不足であることがはっきりしている。(中略)重要なビタミンC源となる新鮮な野菜や果物などは、腐りやすいために船に積まれることはなく、これが船乗りたちに大きな悲劇をもたらした。」
当時はそれこそビタミンCが発見されていなかったとはいえ「その対策が知られていたにも関わらず、なぜかそれが広く普及しなかった」人の命がかかっているのにも関わらず。そして、「単に兵士が怠けているだとか、強制労働させればよいというと主張するものもいた」その要因として「病気の原因と治療法、その結果の関連性について整理がついていなかったことが、壊血病による悲劇を大きく長引かせた」のだという。
エビデンスがはっきりと示されている、にも関わらず広がらない。よいと思ったものが受け入れられない・・・色々な人が経験していることだと思う。しかし、「よい」とされるようになるまでには、多くの成功体験と犠牲を払う。よりよい教育を求めて、様々な策を練って研究し、「戦い続けろ!」と、医薬の先人たちは言っているように思える。
アクティブ・ラーニングやプログラミング教育、道徳の教科化・・・これらは子供達に何をもたらすのか、「よいものは何か」という”戦い”である。想像していた以上に、新たなことを始めるのには覚悟と勇気がいるものだと考えさせられる。
※語弊があると思われる部分を訂正しました。(1月3日23:54)