何か、うまくいかないのです。
色々と仕事も私生活も落ち着かなく、土日更新!…と自分の中で息巻いていましたが、それもあっさり途絶えてしまいました。
何がうまくいかないのか。色々と自分の中で反省もあるのですが、考えてみると学級経営と校務分掌、そして家庭と3つを秤にかけてやりくりしないといけないのですから、どこかしら綻びが出てくるわけです。
なみお学級はどうなっているのか。
今までにない最悪の状況だと思います。まぁ上には上がいて、もっと大変な学校や学級はたくさんあるのだろうけども教員生活を送っていて、ここまで自分の中で納得いかない学級経営もなかなかない。初任の時の方がまだよかった。
人間関係もそうだし、基本ルールも守れてない。指導すれば連絡帳(クレーム)が来るし、私自身も体調を崩し、あららら〜…。
そんなこんなで7月になってしまいました。
6月はなぜ難しいか
自身の実感でしかなのですが、目標を持ちにくい月だなぁとつくづく思います。運動会が終わり、祝日もない。水泳や学習参観シーズンでこちらは相変わらず慌ただしい。おまけに梅雨時期で外遊びもままならない…
子どもも先生も運動会燃え尽き&あまり楽しいイベントがない、といったところでしょうか。笑
忙しさで私のようにクラスを放ったらかしにすると大変なことになります。
学級の立て直しの手立てはあるか
ただピンチはチャンスとばかりに、立て直しの足がかりになるような要因もあります。
子どもたちの不満や不安そのものです。色々と話を聞いて微調整、とあるトラブルから学級経営の修正、その場しのぎ感もありますが、1つひとつやりくりして、継ぎ接ぎでも繋がなければ始まりません。丁寧にこつこつと…そうしているうちに自分自身が学級へ目を向けることにもなります。まぁどこまで出来るかわかりませんが…
そんなこんなで、なみおは今日も明日も生きていきます。
学校の先生という仕事について
少し気になったニュースについて思ったこと
教師は人気職・・・と呼ばれる時代ももう終わりのようだ。小中学生の将来の夢ランキングーなども見ても教師という仕事はたいていTop10には入ってくる。サッカー選手や野球選手、今やYoutuberまで・・・それぞれ共通しているのは子どもの身近な存在の大人ということだろう。そして、親・親族に次いで最も身近で接する時間が長いのも教師。身近な大人である学校の先生に憧れて・・・と、教壇を目指す人も少なくないだろう。
しかし、少子化と教員の減少が進む中、その対策として小学校教員を早くから目指す人を青田買いするこのような対策は有効なのだろうか。
いつから将来の夢について考え、どのタイミングでその夢は揺らぐのだろうか
高校生分野の文献だが以下のようなものがある
高校生年代になるといよいよ具体的に自分の将来について考える一つの別れ道が訪れるようだ。エリクソンも「自我同一性の獲得」というように、青年期において自分が何であるか、自分の存在意義に関わる問題に対して自己を確立し、社会的位置付けを獲得していくことで将来の不安や人生について向き合うことができるとしている。
記事によれば高校生の進路形成において「職業の具体的イメージがつかめない」その結果として「自分のやりたいことが見つからない」「自分には合わないかもしれない」という問題に当たってしまう。それに対してこの奈良県教育委員会の取り組みは、小学校教員を目指す高校生に対して現場をできる限り体感させることで具体的な教職へのイメージを獲得することに一役買うことになるかもしれない。
教師の仕事って実際のところどうなのよ?
けれども実際問題、それだけで現場のイメージをつかむことはできるのだろうか?自分は正直「やってみないとわからない」部分も多いと思う。そして、教師の職業とはどのような特徴があるのだろうか。自分は以下の本を教職を目指す人に勧めたい。
非常にわかりやすくまとめられていて、改めて読んでも勉強になる。その中で第1章二項にある「教職という仕事の性格」という部分が非常に参考になった。
実際に教壇に立つ先生の1日を見ながら、教職という仕事には「無境界性・複線性・不確実性」という三つの特徴があるとしている。
無境界性というのは、「教師の仕事はここまでやればよい」というものがない。民間企業でいうノルマの達成というのがない、あるいは非常に感じにくい点にある。ここまでやればよい、というのは教師個人の自律性に委ねられている。特に初任の先生なんかはこの辺りがうまくできなくて、夜遅くまで残って仕事をしていることもしばしば・・・(私もそうだったけど
複線性というのは、その時々で中心となる仕事(行事や分掌など)が予期せぬ形で様々に変化していくというもの。私は体育主任という仕事をもっているが、その中で運動会の企画と運営という大きな仕事がある。運動会に向けて職員に様々な仕事を振っていくのだけども、「去年まで使っていた〇〇が使えない」「これを子供にやらせるためにどこかで時間を見つけて子供を集めて指導しなければならない」とか色々な問題が必ず浮上する。そして当日になってもあれが足りないこれが足りない、これはどうする・・・と仕事がぐちゃぐちゃとしてくる。その都度私の判断で色々な取り決めをしていくのだが、思いもよらない出来事というのは何年この仕事を続けても非常に消耗するし疲弊してくる。よほどの経験値がなければゆとりをもった対応も判断もできない。
不確実性というのは何が正しく、よい教育であるというものはなく、安定した評価基準はないというもの。まるでゴールのないマラソンをしているような感覚・・・。生徒指導においても、学習指導においても「この言葉かけは正しかったのだろうか・・・」「この判断は間違いではなかろうか・・・」常に悩む。そして疲弊する。
終章:教職に就く・・・という覚悟をもっているか。
うん十年前、私も若かりし学生時代の時、すでに20歳だったが非常に影響を受けた一冊。この本で自分の職業観というのは少し出来上がってきたように思う。
宮台さんが言うには日本人は仕事というものを実際以上にきれいに見てしまいがちだという。歴史的な背景を説明しながら論じているが、そこについては割愛。
日本人は仕事を「生活するために必要なお金をかせぐ手段」「仕事はお金を稼ぐ手段だから、できるだけ少ない時間と労力で生活に必要なお金を稼ぎ、あとは自分の好きな時間を過ごす」という考え方ができない。逆に仕事を「生きがいややりがい」「みんなのきずな」と捉えてしまうのだという。教職にはまだこの文化が非常に根強い。というのは民間企業とはまた違った「教師文化」とも言える仕事観がある。
ひとつは小学校・中学校は義務教育であり、誰しもが通る道であるということだ。私も行きつけの居酒屋で自分が小学校の教員である、と話すと隣のおじさんが「俺が小学生のときはなぁ・・・」とか言い出し、その奥の席からおばさんが「最近のニュースとか見ると先生って大変よねぇ・・・」と話題が膨らむ。誰しもが経験し、通る道なので教育というものをみんな少しはかじっている、ということになる。そして、それぞれ教育というものに関心があるどころか親ともなれば教育経験者だらけなので話題が尽きない。そして実際に教壇にたったとき、自身が小学生・中学生だった経験がそのまま投影されやすい。
・・・そんなこんなで教職「お金を稼ぐ手段」としてはかなり遠い存在になり、何を目的に教職を目指しているのか?学校の先生を目指すこと自体が「お金を稼ぐ」という宮台さんのいう「手段」として仕事を選ぶことから外れていくのだ。
二つは教職あるあるで、教壇に立った時に校長先生や教頭先生、一緒に学年を組む先生が、かつての自分の担任の先生だったということがざらにある。お世話になった先生の背中を追いかけ、そして見守られながら仕事をする・・・。また、現に担任している子供の中に教師仲間の子供がいるとかも。笑
・・・と言った感じで宮台さんのいう仕事を通じた「みんなのきずな」感が半端なく高い。私自身も小学生時代に畑をやっていた担任の先生の家に遊びに行って、夏は野菜を収穫して、秋になればサツマイモ、冬場は大根の収穫・・・と、学校の先生と子供のきずな感も非常に高かった。
つまり学校の先生の仕事というのは「生活するために必要なお金をかせぐ手段」としても機能はするかもしれないけど、その一方で仕事の「きずな」感が高く、今風にいうと「やりがい搾取」のオンパレードである。お金は稼げない、だけどもその代わり他職にはない「やりがい」を感じられるし、「きずな」も感じられる。「生活するために必要なお金をかせぐ手段」として割り切れない部分が多い。
私が教員採用試験に合格したとき、先輩から「とうとうこっちの世界に来ちゃったね・・・」と言われた。なんだかよくわからなかったけど、今となっては少しわかったようなわからないような。
ところでなぜ私がこの仕事をしているかというと、面白いと思う仕事が他になかったから。自分にとって「生活するために必要なお金をかせぐ手段」とか「自分の好きな時間を過ごすため」というのはあまり気にならなかった。今の仕事でもそれなりにお金は稼げてるし、自分の好きな時間も過ごせているから。
宮台さんの意見はとても面白いし共感もする。けれども、やっていることは真逆なんだよな。これって何なのだろう。
筆者について
筆者について
公立小学校で教員をしています。そろそろ中堅といわれる(?)年数になってきました。
大学を卒業後、大学院で教育学を学んでいました。修士課程卒です。
教育相談や生徒指導について勉強しています。
筆者は「日本学校教育相談学会」と「日本生徒指導学会」に所属しています。特に発表とかはないのですが、裏方で動いていることがあります。
学部生時代から不登校の児童生徒を支援する活動を行っており、かれこれ10年くらいになります。現在も日常や学校生活に課題や不安をもつお子さんや保護者と関わることが多いです。
教育のICT化について考えています。
学校現場のICT化について興味があります。学校のHPを作ったり、資料を作るお手伝いをしたり、情報関係の仕事も長くやっていました。とはいえ、自身のICTスキルもそこまで進んでいるわけでもなく、現場のICT化もなかなか進まず、いろいろな意味で苦労しています。
筆者の目指すもの
学校の力で、困り感をもつ保護者、家庭、児童にどこまで支援できるのか、どこまでアプローチ可能か、そして教員にできる支援とはどのようなものかを探っています。
こういうと怒られてしまうかもしれませんが、国語や算数、理科など教科指導に特化したものは、あいにく持ち合わせておりません。笑
異動の先々で公開研究会の年にあたることが多く、理科や生活科、体育などの授業研や研修に参加したり、授業をしたりする機会が多いです。学校は授業を受けるところであり、子供たちにとって授業の時間が大半を占めます。なので、学習指導を通じた支援の在り方というのも極めて重要であると考えます。なので授業についても勉強して(?)ますよ。一応・・・。
日本学校教育相談学会研修会に参加しました。
さっそく挫折しそう(笑)・・・なので最近参加した研修について書いておこう。
「ネット・ゲーム依存のメカニズムと学校・家庭が果たす役割」
独立行政法人国立病院機構久里浜医療センター 精神科医長 中山秀紀 先生
お医者さんの話なので、依存症とは、治療とは、対策とは・・・と、お医者さん目線で色々な話をいただいた。以下にざっくりまとめて行こうと思う。
1 依存・依存症とは(定義)
ある物質の使用やある行為が制御して止めることができなくなる、もしくは困難になる、やりすぎてしまうこと。
それによって様々な悪影響が出てくること。
厚労省のHPをみると
「医学的定義では、ある特定の物質の使用」に関してほどほどにできない状態に陥る状態を依存症と呼びます」
とある。お医者さんの世界ではアルコールや薬物などの”物質”によるものを依存、あるいは依存症というらしい。
でもネットやゲームって物質じゃないぞ、と思ったらこんな記述もあった。
○「プロセスへの依存」について
物質ではなく特定の行為や過程に必要以上に熱中し、のめりこんでしまう症状のことを指します。
どちらにも共通していることは、繰り返す、より強い刺激を求める、やめようとしてもやめられない、
いつも頭から離れないなどの特徴がだんだんと出てくることです。
厚労省はこの二つを区別しているようだ。ネットやゲームは後者になる。
2 依存物、依存を呈しやすい物質・行為とは
ある物質を使用する、もしくはその行為をすることで「快楽(快感・ハイになる・楽しい・ほっとする・安心する・・・etc)」を感じるものは依存しやすい。
ところが、飽きてしまうものややり続けられないものは依存する可能性はほとんどない。
一方でそれを使用する、もしくは行為をすることによって「不快」になる、「快楽も不快も感じないもの」は依存する可能性はほとんどない。
その逆は依存に陥りやすいというもの。
最近のゲームやネットは世界の無限性という要素が強まったために、非常に依存しやすい構造になって来ているという。
たしかに昔のドラクエやマリオなどステージをクリアしてラスボスと戦ったら終わり、というコンテンツは少ない。ネットを介して次々と新しいコンテンツや要素が加わっていくことで一つのゲームでも無限の世界が広がっていく。そしてスマホでもいっぱしのゲームが出来るようになったことで時間場所も問わない、となるとやっぱり依存の要素満載の内容になってくる。
学習心理学の「正の強化」と「負の強化」に例えての説明もあったけれども、
正の強化=楽しいからやり続ける
負の強化=依存を止めると不快になりそれらが止められなくなる(依存症特有の症状)
自分は負の強化は除去のイメージ(単純に刺激による反応がなくなる、犬が「お手をしても餌もらえないんでしょ?んじゃ、やらないよー」というもの)だったけれども、止める→不快→不快を回避するために行為(ゲーム)を続ける という行動の強化が起こるという意味合いもあるのね。
3 依存のめんどうなところ
依存の面倒なところは、依存者が不幸になっていることが理解しにくいところ
ニュースや動画サイトなんか見ても、たいてい「こいつヤベェ・・・。」とか「部屋汚ねぇ・・・」くらいにしか思えない。でも、それぞれ依存者は同じように生きていて年齢がある程度達していれば(わたし、大丈夫かな・・・大丈夫じゃないよな・・・)と思うだろう。でも、それでもやめられない。この世界から離れたらどんどん不幸になってしまう(気がする)から。
かつて私が出会った子供たちの中に近親者との死別からゲームにのめり込むようになってしまった事例がありました。詳しくは書けませんが、近親者との死別のショックや精神的不安定から逃れるためにゲームの世界に行ってしまう・・・。しかし、はたからみたらそんなことはわからないし、わかろうともしないんだろうなぁとも思う。むしろ現実逃避で甘えてんでしょ?みたいな。
依存するものの不幸とは何か。表面的な行動だけでなくその内面の不幸に向き合うことが根本的な解決に向かわせるのだろうと感じる。
4 データで見てみると
インターネットの個人使用率は全体でおよそ8割、13ー19歳、20代30代の利用率はほぼ100%
総務省のデータを出していたけど、どこに載っているのかちょっとわからなかった。(特に13ー19歳の調査はないんだけどな・・・)
とはいえ、幅広い年代や世帯年収の人たちがインターネットに触れていることはわかる。
さらに
子どもとメディアのよい関係づくりのために―福岡市「小・中学生のメディアに関する意識と生活」アンケート調査報告 (保健師ジャーナル 70巻8号) | 医書.jp
の馬場伸一さんの、「福岡市内の小中学生をもとに平日の総メディア接触時間について」のデータ
さらに神奈川県の3市のデータ
横浜市 子どもたちのネット利用に係る実態調査の結果について 〜小中高校生の9割超がインターネットを利用 生活習慣やルールづくりが利用時間と密接な関係〜 (平成26年10月10日記者発表資料概要)
などなどを出しつつ、小中高生がかなりスマホなどを使ってインターネットを利用していますよーと言っていた。
その中で「インターネット利用時間と大学生の進級率の悪化には相関がある」として以下のような文献も。
韓国の研究だけどインターネットの利用とADHDが関連しているというデータもあった。
その中で話していたのは
・インターネットは現実社会よりもレスポンスが早いので、待つことが苦手なADHD者にとってインターネットの方が心地よいのかもしれない
・ゲームの中には脳内に快楽をもたらす神経伝達物質(ドーパミン)が放出されるが、ADHD者は日常生活のストレスをゲームによって解消しているのかもしれない。
・ADHD者は自己制御がかなり困難なので、インターネットにのめりこむと自己制御しにくいのかもしれない
・ADHD者はその衝動性、過活動、不注意などの症状から現実生活では不適応を起こしやすいが、インターネット上ではこれらの症状が覆い隠される可能性があるのかもしれない
ここに関しては慎重になるべきだと思う。
確かにADHD者の衝動性とゲーム・ネット世界の無限性、次々と移り変わっていくコンテンツとの親和性は高いと考えるが、ADHD者の依存の治療過程や予後についても考える必要があると思う。自分の置かれている状況(自己洞察)を見るメタ認知的な力も弱そうだけども、それはADHDの子どもに限った話ではない。
6 学校や家庭での対応・対策として
外堀(ネット・ゲームをさせない環境)と内堀(ネット・ゲームを利用する環境やルール)の話。ルールを一生懸命考える研究や対応がなされているけども、まずは外堀を固めていくことが肝要。内堀で守るのであれば自己制御が適切にできるようになる大人になるまで時間稼ぎをする必要がある。
いや、無理でしょ。笑 データでほぼ全員がネット・ゲームを利用しているデータがあるのにそれらを全部ひっくり返すのは無理難題でしょう。
むしろ我々はタブレット端末を使った授業やモラル教育などを推進する立場なのだからもうここまできたら内堀で勝負するしかない。
ただ、われわれの構えとしてネット・ゲーム依存は誰にでもおこりうるということと、発達障害の傾向のある子供は要注意ということ、そしてゲーム・ネット依存は物質(薬物・アルコール)と同じく正の強化(快楽)と負の強化(なくなったことへの不安、その不安からの回避)のスパイラルに陥るということをわかっておくべきでしょう。
そして、依存に陥ってしまった家族への支援も考える必要があるのだなあと、そんなことを考えておりました。
ラーメンは美味しい。
なみおと申します。ラーメンを食べながら開設しました。
ツイッターでも色々呟いてはおりましたが、研修の備忘録として自分なりの考えなどを書いて残しておくとそれもそれで勉強になるかなぁと思いまして始めてみました。
どこまで続くか分かりませんがよろしくお願いします。