なみおさんの日記

教育したりされたりする仕事をしています。

学校の先生という仕事について

少し気になったニュースについて思ったこと

 

www.kyobun.co.jp

 

教師は人気職・・・と呼ばれる時代ももう終わりのようだ。小中学生の将来の夢ランキングーなども見ても教師という仕事はたいていTop10には入ってくる。サッカー選手や野球選手、今やYoutuberまで・・・それぞれ共通しているのは子どもの身近な存在の大人ということだろう。そして、親・親族に次いで最も身近で接する時間が長いのも教師。身近な大人である学校の先生に憧れて・・・と、教壇を目指す人も少なくないだろう。

 

しかし、少子化と教員の減少が進む中、その対策として小学校教員を早くから目指す人を青田買いするこのような対策は有効なのだろうか。

 

いつから将来の夢について考え、どのタイミングでその夢は揺らぐのだろうか

 

高校生分野の文献だが以下のようなものがある

http://www.keinet.ne.jp/gl/16/0708/07shinro.pdf

 高校生年代になるといよいよ具体的に自分の将来について考える一つの別れ道が訪れるようだ。エリクソンも「自我同一性の獲得」というように、青年期において自分が何であるか、自分の存在意義に関わる問題に対して自己を確立し、社会的位置付けを獲得していくことで将来の不安や人生について向き合うことができるとしている。

 

 記事によれば高校生の進路形成において「職業の具体的イメージがつかめない」その結果として「自分のやりたいことが見つからない」「自分には合わないかもしれない」という問題に当たってしまう。それに対してこの奈良県教育委員会の取り組みは、小学校教員を目指す高校生に対して現場をできる限り体感させることで具体的な教職へのイメージを獲得することに一役買うことになるかもしれない。

 

 

教師の仕事って実際のところどうなのよ?

 けれども実際問題、それだけで現場のイメージをつかむことはできるのだろうか?自分は正直「やってみないとわからない」部分も多いと思う。そして、教師の職業とはどのような特徴があるのだろうか。自分は以下の本を教職を目指す人に勧めたい。

 

新しい時代の教職入門 改訂版 (有斐閣アルマ)

新しい時代の教職入門 改訂版 (有斐閣アルマ)

 

 

 非常にわかりやすくまとめられていて、改めて読んでも勉強になる。その中で第1章二項にある「教職という仕事の性格」という部分が非常に参考になった。

 実際に教壇に立つ先生の1日を見ながら、教職という仕事には「無境界性・複線性・不確実性」という三つの特徴があるとしている。

 無境界性というのは、「教師の仕事はここまでやればよい」というものがない。民間企業でいうノルマの達成というのがない、あるいは非常に感じにくい点にある。ここまでやればよい、というのは教師個人の自律性に委ねられている。特に初任の先生なんかはこの辺りがうまくできなくて、夜遅くまで残って仕事をしていることもしばしば・・・(私もそうだったけど

 

 複線性というのは、その時々で中心となる仕事(行事や分掌など)が予期せぬ形で様々に変化していくというもの。私は体育主任という仕事をもっているが、その中で運動会の企画と運営という大きな仕事がある。運動会に向けて職員に様々な仕事を振っていくのだけども、「去年まで使っていた〇〇が使えない」「これを子供にやらせるためにどこかで時間を見つけて子供を集めて指導しなければならない」とか色々な問題が必ず浮上する。そして当日になってもあれが足りないこれが足りない、これはどうする・・・と仕事がぐちゃぐちゃとしてくる。その都度私の判断で色々な取り決めをしていくのだが、思いもよらない出来事というのは何年この仕事を続けても非常に消耗するし疲弊してくる。よほどの経験値がなければゆとりをもった対応も判断もできない。

 

 不確実性というのは何が正しく、よい教育であるというものはなく、安定した評価基準はないというもの。まるでゴールのないマラソンをしているような感覚・・・。生徒指導においても、学習指導においても「この言葉かけは正しかったのだろうか・・・」「この判断は間違いではなかろうか・・・」常に悩む。そして疲弊する。

 

 

終章:教職に就く・・・という覚悟をもっているか。

 

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に

 

 うん十年前、私も若かりし学生時代の時、すでに20歳だったが非常に影響を受けた一冊。この本で自分の職業観というのは少し出来上がってきたように思う。

 宮台さんが言うには日本人は仕事というものを実際以上にきれいに見てしまいがちだという。歴史的な背景を説明しながら論じているが、そこについては割愛。

 日本人は仕事を「生活するために必要なお金をかせぐ手段」「仕事はお金を稼ぐ手段だから、できるだけ少ない時間と労力で生活に必要なお金を稼ぎ、あとは自分の好きな時間を過ごす」という考え方ができない。逆に仕事を「生きがいややりがい」「みんなのきずな」と捉えてしまうのだという。教職にはまだこの文化が非常に根強い。というのは民間企業とはまた違った「教師文化」とも言える仕事観がある。

 

 ひとつは小学校・中学校は義務教育であり、誰しもが通る道であるということだ。私も行きつけの居酒屋で自分が小学校の教員である、と話すと隣のおじさんが「俺が小学生のときはなぁ・・・」とか言い出し、その奥の席からおばさんが「最近のニュースとか見ると先生って大変よねぇ・・・」と話題が膨らむ。誰しもが経験し、通る道なので教育というものをみんな少しはかじっている、ということになる。そして、それぞれ教育というものに関心があるどころか親ともなれば教育経験者だらけなので話題が尽きない。そして実際に教壇にたったとき、自身が小学生・中学生だった経験がそのまま投影されやすい。

・・・そんなこんなで教職「お金を稼ぐ手段」としてはかなり遠い存在になり、何を目的に教職を目指しているのか?学校の先生を目指すこと自体が「お金を稼ぐ」という宮台さんのいう「手段」として仕事を選ぶことから外れていくのだ。

 

 二つは教職あるあるで、教壇に立った時に校長先生や教頭先生、一緒に学年を組む先生が、かつての自分の担任の先生だったということがざらにある。お世話になった先生の背中を追いかけ、そして見守られながら仕事をする・・・。また、現に担任している子供の中に教師仲間の子供がいるとかも。笑 

・・・と言った感じで宮台さんのいう仕事を通じた「みんなのきずな」感が半端なく高い。私自身も小学生時代に畑をやっていた担任の先生の家に遊びに行って、夏は野菜を収穫して、秋になればサツマイモ、冬場は大根の収穫・・・と、学校の先生と子供のきずな感も非常に高かった。 

 つまり学校の先生の仕事というのは「生活するために必要なお金をかせぐ手段」としても機能はするかもしれないけど、その一方で仕事の「きずな」感が高く、今風にいうと「やりがい搾取」のオンパレードである。お金は稼げない、だけどもその代わり他職にはない「やりがい」を感じられるし、「きずな」も感じられる。「生活するために必要なお金をかせぐ手段」として割り切れない部分が多い。

 

 私が教員採用試験に合格したとき、先輩から「とうとうこっちの世界に来ちゃったね・・・」と言われた。なんだかよくわからなかったけど、今となっては少しわかったようなわからないような。

 ところでなぜ私がこの仕事をしているかというと、面白いと思う仕事が他になかったから。自分にとって「生活するために必要なお金をかせぐ手段」とか「自分の好きな時間を過ごすため」というのはあまり気にならなかった。今の仕事でもそれなりにお金は稼げてるし、自分の好きな時間も過ごせているから。

 宮台さんの意見はとても面白いし共感もする。けれども、やっていることは真逆なんだよな。これって何なのだろう。