私が影響を受けた人 ~國分康孝先生 東京成徳大学名誉教授~
私が影響を受けた人物に國分康孝先生がいる。
この4月に亡くなられたとのこと。私は面識もつながりも全くない人間ですが、心から哀悼の意を表したいと思います。
私が國分先生の著書に出会ったのは学部生時代。教育学部でもなく心理学部でもなかった私の進路を全く別の方向に向かうことになったきっかけの一人である。
カウンセリング心理学
國分先生の著書は大学院生になっても読み漁っていた。
特にこの2冊は、私の子ども観を作り、子どもや保護者との関わりに非常に大きな影響を与えた。
「カウンセリングの理論」は様々あるカウンセリング心理学の基礎的な考え方を網羅しており、入門書として最適であると思う。
精神分析のフロイト、自己理論・来談者中心療法のロジャーズ、ゲシュタルト心理学のパールズ、論理療法のエリス・・・カウンセリング心理学の巨匠とも呼べる人々の生い立ちなどのエピソードから始まり、それぞれ各人物が理論を作り上げた背景など、各理論の根本にあるものは何かというレベルから学べる。
また、個人的に特に気に入っている点はそれぞれの理論について留意点や問題点、批判について丁寧に述べられている点にある。
フロイトの精神分析論や夢分析、適応機制などはその普遍性に問題があると言われているし(アドラーがその一人)
そしてロジャーズの理論も、児童理解や生徒指導、教育相談の考え方によく利用されているが問題点もある。ロジャーズの功績は特にカウンセラー対クライエントの一方的で指示的な関係(昔はカウンセラーは指示的な立場であったらしい)を崩し、受容と共感によるカウンセリング、来談者中心療法という方法を確立したことにある。クライエントのありのままを受け入れ、信頼関係を築き理解を深める(学校で言えば児童理解)ことに重点を置いた。しかし、國分先生もこの手法にも問題点があるという。確かに廊下を走っている子がいたら、その子の気持ちを受け止める前に脊髄反射的に「コラー!」となる。
ただ、どの理論もコテンパンに批判しているわけではない。これは私の勝手な想像だが、國分先生は我々に「どの理論にも正解があり、問題がある。目の前にいる人や子どもをどの理論の角度から見るとより理解できるのか、そして問題点も理解しつつ自分で取捨選択せよ。」というメッセージを送っているのだと思う。
そしてこの本は読者に各カウンセリング心理学の理論を語り、様々な角度で人を見るものさしを授けてくれる一冊であると私は思う。
この一冊も非常に影響を受けた。カウンセラーの事例やカウンセリングの事例が中心だが、これらは我々教員も対子どもとの関わりの中で生かせることばかりだ。カウンセラーは教員としての立場、クライエントは子どもと保護者に置き換えて考えることができる。
個人的には「p.105第5章 面接中期の諸課題」にある「転移」についての記述は非常に考えさせられる。
来談者の言動に刺激されてカウンセラーが自分の私的感情を出すことを対抗感情転移という。学力に自信のない教師が学生に質問されたとき、何か自分が馬鹿にされたように思って怒る場合、父に恐怖を持つカウンセラーが年上の来談者には気合負けして、言いたいことも言えなくなる場合、愛に飢えているカウンセラー異性の来談者に必要以上に親切になる場合、などがその例である。
お金のない家庭で育った子どもが給食費を滞納している。鉛筆や消しゴムもそろってない。すると、自分の財布からそれらを差し出すなんてことはないだろうか。(これは賛否ありそうだけど)
自分を支持する子どもばかりに目をかけ、批判的な子どもや保護者への関わりをないがしろにしてないだろうか。
部活動などの長時間の残業にしても、それは果たして子どものためなのだろうか。残業して一生懸命仕事をしている、いい恰好をしてやろう。周りからよく思われたい。そんな私的な感情はないだろうか。
自分自身を振り返り、また明日の関わりに生かすことのできる一冊であると思う。
この本の初版は1979年である。その一年後の1980年にカウンセリングの理論が刊行された。構成的グループエンカウンターの開発や論理療法を日本に広めた名高い人物であるが、カウンセリングの考え方に多大な影響をもたらしたことも忘れてはならない。
ちなみに私は不登校の研究をしていたので以下の本もすすめたい。
授業公開の備忘録 ~大妻中野中学校・高等学校~
授業公開の備忘録
遅くなりましたが、今回は大妻中野中学校・高等学校にお邪魔し、授業を見させていただきました。
特色としては
SGH(スーパーグローバルハイスクール)アソシエイト校として、国際教育に力を入れている。(フランス語で天気予報をする動画を作成していました。)
ICT教育として、一人一台のタブレット端末(全校1200人全員配布・・・!!!)
○ロイロノートの導入
授業支援【ロイロノート・スクール】小学校から大学まで深い学び
○オフィスソフト、辞書機能(英語・国語・古語)
○QQEnglishの導入
スカイプのようなインターネット通話機能を使って、海外の英会話講師とのやりとりを学習に導入しているようです。
○スタディサプリ(英語・数学)を用いて反転学習の導入(こちらは主に数学)
自宅で事前学習(予習) → 学習終了後、演習の結果をフィードバック → 事前学習をもとに授業 → 学習の内容を蓄積、ポートフォリオを作成し、振り返ることができる。
・・・などなど、ICT機器とその機能を生かした学習が盛りだくさんの学校でした。
中でも驚いたのはLMS(Learning Management System)を導入し、学習のみならず連絡や校務にもふんだんに使われていた点です。
LMS(Learning Management System)の話
大妻中野中学校・高等学校ではmanabaというLMSが導入されていました。
これが本当にすごい!と思ってしまいました。
とにかくペーパーレス!生徒・保護者へのお知らせ配布文書もデータ上で行われ、会議にも活用されているようです。さらに、小テストや委員会・部活動などの連絡用にも使われているそうです。(一応、電子会議室っていう機能が私の学校にもあるんだけど・・・。笑)
大学でも導入事例が多く、中高ではまだ少ないとのことですが、これは一見の価値ありでした。
提案資料を作るのに、大量の紙を印刷し、とじ込み、配布する手間が省けたらどんなに楽か・・・。笑
休み時間の会話の中で「先生ー、数学の試験範囲って出てますか?」『あーweb上に上げてるから確認してー』「はい、わかりましたー」みたいな。こうした連絡にも役立っているんだなぁ。
実際の授業の様子はどうなのよ?
先生型も生徒たちと同型のタブレットPCを持ち、電子黒板(プロジェクターに投影されたものに記入するタイプ、インタラクティブ・ホワイトボードのようなもの)と合わせて活用。
中でもなるほどなーと思ったのは、中学の日本史の学習で、メインの部分は電子黒板に、文化史などの流れは手元のタブレットに投影し、二つの流れをつかんでノートにまとめさせるというもの。こういう使い方もあるのね。(私が無知なだけか・・・。)
ただ、すべてタブレットで済ませているかと思いきやそうでもなく、基本は紙・ペン重視で、ノートに基本は書いてまとめていて、ちょっとした調べものや意見をまとめるのにタブレットやロイロを使って提出。といった形式が多かった。
そして授業を見学させていただいて気が付いたのは・・・ん?この教室、ってか1クラスの人数多くね!?と。
なんと1クラス40〜45人編成。ちょっと公立では考えられない人数。
それでも、そんなこと気にならないほど授業はスムーズだし、議論も活発だった。人数が多くて目が行き届かないといった難点もICTが手伝ってくれるのだろうと思った。
この話をちょっとだけ情報部門の担当者に話したところ・・・
「お金がありません。」
一蹴。笑
でも、セキュリティエリア(個人情報などを扱う、セキュリティの厳しいセンターサーバー内)では、電子会議室や職員会議録などを配布する機能はデフォルトでついてはいる。。。でも、なかなか実際に使ってみようという話にはならない。
私立の魅力は公立と違ってお金をかけるところを決められるところにあるのかなぁなんて思う。すべてが自由とまではいかないのだろうけど、公立のように教育委員会がICTとならないとICTにならないし、クーラー!って言わないとクーラーつかないし、学習設備も欲しいと思ったものは審査を経て一か月後、高額なものは来年になる。
そういった中で、私立に行かせたいと思う親が増えているのもうなずける。お金があれば、設備の整った環境でわが子を学ばせたい。ごく自然な発想だ。でもタブレットPCは自腹だし、学費も高額。ICTが活用できるスキルも必要。
教育の機会均等、義務教育の無償、教育格差を是正するための策がいまや格差を再生産する結果を招いているなんて、なんたる皮肉なこと・・・。
公立校教員なのに、わが子は私立に行かせてもいいなあなんて。妄想するわけだが・・・。よい子に育つ秘訣はお金の力なのだろうか。
カルロス・ゴーンの衝撃から見る学校の不祥事
ものすごくお久しぶりになってしまった。笑
あの日産の会長が逮捕されたニュース。私は思わず「うげげげー!」となったのですがが、妻は「何このミスタービーン」とか言っててもう世も末かt
給与を過少申告し、会社の資金を私的に使うなど不正が長期化とのニュースもあり、このあたりは会社経営などは専門ではないので割愛しますが。
ただ、不正があり役員クラスとその周辺では有名な話であったはずなのに、なぜ看過されてきたのか、これは教員の不祥事にも似たような点があると思うのです。
教員の不祥事に関する研究
不祥事に関しての研究はたくさんあるのですが、特にこのお方の論文をあげてみたい。
学校教職員の不祥事と対策について : 発生促進と抑止要因に注目して - 岡山大学学術成果リポジトリ
岡山大学の塚本千秋先生の論文です。非常に読みやすかったです。
塚本先生は「不祥事の発生要因」として「発生促進要因」を4つあげています。
(3)のように、ゴーン会長ともあろう方が企業のコンプライアンスの学習不足というのはありえないと考えられます。(1)や(2)も確信犯であることからないかと。ということで(4)の例はあてはまるのではないかと私は考えています。
ゴーン会長の権力が非常に強大になっていったのと比例して、コンプライアンス違反となっても、それを包み隠し、包み隠してやりすごせた経験が積み重なっていった、というのが私の考えるところです。
学校でもこれはあてはまるのではないかと思います。個人情報を持ち帰ってもバレなかったから次も大丈夫、USB使っても大丈夫・・・この大丈夫だったという正の経験と、いざやめてしまうと不便になってしまうという負の経験がスパイラルとなって、いざ露見したときに大変なことになっていた時すでに遅し・・・。
授業でも手抜きをする。なんとなく日々やり過ごせる。これでいいのだ・・・教員としての終焉の始まりですね。明日は我が身、他人のふり見て我がふり直せとはいい言葉だなぁと思います。
明日で学校おわり
明日で夏休み前、最後の登校日。
今でも忘れはしない、教員1年目のころ。
夏休み前の最後の日だからといって、教室でレクリエーションをやって楽しく過ごし、子供を帰した。
数日後、担任している子どもが交通事故に遭ってしまった。
幸い命は助かり、後遺症も残らなかったものの、二ヶ月ほどは運動制限。そして、車が目の前を通ると鳥肌が立ち、歩けなくなってしまうトラウマのようなものになってしまい、そこから登下校はしばらく保護者がつきそうことになってしまった。
今は元どおりの生活を送っているけども。
あの時なぜ言ってやれなかったのか。「車の事故には気をつけるんだよ。」と
まったく根拠はわからないのだけども「いってらっしゃい」「気をつけてね」という言葉をかけると事故率が大幅に下がる、という研究があるらしい。
学校に毎日楽しく通うのも、何よりも命、体、心があってこそ。
楽しい夏休みを送ってほしいものである。
子どもがいて思うことは
自分の体調不良もあり、何と今週は4日もお休みをいただいてしまった。omg
今日は久々の出勤で色々な先生方に心配されまくり、そして仕事してもらいまくりで頭が上がらない。あぁ・・・
校長先生からは「年休と子育て休暇もったいないでしょ。実際、病気だったんだから療養休暇で処理しちゃって〜」とか言われてもうあなた神様ですか。みたいな。
(他の休暇に比べて日数の少ない子育て休暇は私にとって貴重)
自分の子どもと過ごしていて思うこと
子どもも発熱が長引き、家にずっといると飽きてくるようで元気になってくると幼いなりに「先生のとこ、いかないのー?」「○○ちゃん(友達)と遊びたいなあ」なんてことを呟き出します。
今、入れている保育園は運営面に対してかなり口を出したいところはあるものの、先生方に対してはとても信頼しています。でもその信頼はどこにあるかというと
「子どもが楽しく園に通っている。」
「帰ってくると今日あったことを楽しそうに話してくる。」
これに尽きます。温かい、心のこもった連絡帳のメッセージや子供の反応を見ると、絶対に先生方を悪く思うことはありません。でもこれって自分の仕事もそうだなと思う。
何にしても楽しく過ごしている、そして子供の成長が手に取るようにわかる。集団生活の中で悩み、苦しんでいることもあるのだろうけどもその中でも、今までできなかったことができるようになっている。分からなかったことが分かるようになる。
この 日々の生活 と 我が子の成長 の相互作用によって信頼関係が確立していくのだなぁと。ひしひしと思うわけです。そして自身に問いかける
「そういう思いを、自分の担任している子の親御さんたちに、どれだけしてやれているのだろうか?」と。
当たり前のことだけども。
子供の後ろには保護者がついています。子供の後ろにいる保護者の影を頭におきつつも、色々な言葉かけを考えていかなければならない。
この前テレビで見た「今でしょ!」の林修さんがおっしゃっていたけれども
「自分が子供だったころに、よくなかったことはやらせたくない」逆に
「自分が子供だったころに、よかったなということを押し付けるのもよくない」
感動と傷つき体験を基に自分の体験を子供に投影する、感動と傷つき体験を”再生産”する行為はよくない。現代社会は昔とは大きく変わっている。学習も文化も流行りも全くことなる。そういう中で「子供にもいいだろう」と思うことも少し立ち止まって「子供にとってはいいことなのかな?」とクエスチョンマークをつけて考えることが大切。
みたいなことを言っていた。学習指導や生徒指導においてもこの考え方は非常に重要だと思った。
これぐらい自分も子供の頃は言われていた。叩いたり蹴られたりするのも当たり前。だから、大丈夫だろう。
運動会のピラミッドだって5段タワーなんて平気だった。
成績を上げるために夜遅くまで塾なんて当然。でも、自分は友達と遊べなくて寂しかった。
放課後、遊べなくても音楽をやらせたり、スポーツをやらせたりさせたい。かつての自分もそれで成長できたから。
でもそれって「この子にとってはどうなの?」とふと立ち止まる。
でもこれも私自身が感動と傷つきの再生産をしているのかな。自分の価値観に惑わされてはいけない。40人いれば40人の生活があり、それぞれの生き方があるのだから。ね。
ライフワークバランスの話
なみお家のライフワークバランスの話。
なみお家は私も妻も共働きで、未就学の子供がいます。
そしてどうしても起こるのが子供が熱を出して仕事を休まなければならない・・・。という事です。なかなか悩ましい問題です。
教員が仕事を休む時
教員の休暇というのはきちんと法律で定まっています。
詳しくはリンク先をご参照ください。私のような公立校の教員は地方公務員にあたるので、都道府県(政令市の場合は市)ごとに条例で定められています。私の勤務する都道府県では年次休暇、特別休暇(夏季休暇、結婚休暇、療養休暇など)、介護休暇のほかに子育て支援制度に定められた「子育て休暇」というものがあります。
子供が熱を出して休むほかにも、子供の授業参観、個人面談、そのほか子供の事情に合わせて取得することができます。
実際休むことはできるのか?
できます。よほどのハラスメント管理職に当たらなければ承諾を得て休暇を取ることができます。私の職場は子育て世代が多く、ありがたいことにかなりこの休暇を取りやすくなっています。
実際今月に入って何日か子供の体調不良で休んでいます。でも、それは他の人も同じです。他の人が休んだ時は空きコマの時に教室に入り、プリントを印刷し、授業や行事の準備などできることは進めてしまいます。・・・というように、もちつもたれつの関係が自然と成り立っています。私の職場では「子育て同盟」とかよんでます。
それでも子供は毎日学校にやってくる
休んでいる間も子供たちの日常は続いて行きます。教室を閉めるわけにはいきません。
そんなこんなでお休みをいただくのは非常に罪悪感・・・変なところで責任感みたいなものが出てきてしまうものです。子供たちの学習を保障するために、色々な先生が補教に入るわけです。
しかしそんな生活も今では慣れてしまい、休むときは休む!もう諦めがついてきています。何があっても子供を置いては仕事に行けません。なので諦めるしかないのです。
子供の保育園の話
なみお家はどちらも実家が遠いので、なかなか実家の力を頼ることができません。なので、私か妻かどちらかが朝保育園に送り、どちらかが迎えをします。
急な面談が入ってしまったり、仕事があったりしたときは別ですが。この辺りはみなさんどうやりくりしているのでしょう・・・。
話は変わりますが、実は保育園に入れる前、保育園が決まらずいわゆる”待機児童”になったことがあります。(その後、入れることになったのですが・・・。
管理職に保育園に入れなかったらどうなるのか・・・。と相談したことがあります。非常に親身になってくれる校長先生で、教職員必携(管理職がもつ教育六法や県の条例が網羅された辞書)をひっくり返したり、教育委員会に問い合わせてくれたり・・・色々な手立てを考えてくれましたが結果・・・
教員の子供の保育園が決まらなかった場合、3歳になるまで育児休暇を強制的に取る。
それもできない場合は失職!なんだそうです・・・。
公務員でも失職してしまう待機児童問題おそろしや・・・。まぁ、色々方法はあるのだと思いますが。
子どもを育てる仕事ですが、自分の子供を育てるのが一番難しいというなんとも皮肉な仕事。笑
そんなこんなで、こんな記事を書いていたからかわかりませんが、またしても子供が熱を出したので明日はお休みをもらう予定です。はぁ〜。。。
某小学校の公開研究会に参加しました。
毎年の恒例行事の時期です。公開研究会。
色々思ったことをメモしたいと思います。
”フゾク”小学校の先生たち
もうこの年になると、同期の中でもいわゆる”フゾク”という都道府県下でも最強の研究校に配属されていきます。年齢も経験年数も同じくらいの人たちです。その授業に対する姿勢や意欲にはただただ感服するばかり。自分なんかは公開は何度か経験してますが異動しても「また公開研究か・・・。」なんて気持ち半分思ってしまうものです。
そんな先生たちなので指導案を見ても「アイディアマンが揃ってるなー」という印象です。題材といい、ねらいといい、新学習指導要領を見越して様々な試行錯誤が行われている印象です。チャレンジングスピリットにあふれています。
若きアイディアマン、ゆえの苦悩
授業者は若手と呼ばれる人ばかりです。
協議会の中で授業内容や題材云々よりも、そもそもの授業技術を問われる場面が多かったように思います。子供と共有すべき学習課題、子供に対する発問、つぶやきの返し、時間配分、学習内容の集約(まとめ)・・・私から見ても突っ込みどころ満載です。そして「やはり・・・」といわんばかりフロアのベテランからは総突っ込みを食らうわけです。
そこに若きアイディアマンの苦悩があるように思います。公立校にあるようなベテランの学年主任と組み、嫌味をいわれながらも技術は伝承されていく。このベテラン→若手の技術の伝承が起こりにくいわけです。技術の伝承がなければ自分の思いだけで授業をしてしまうだけです。
しかし授業技術というのは学問と同じで先人たちの試行錯誤の積み上げであります。公立校の研究は、先駆的な取り組みや手立てを試す場であるものの、その中でも若手が先人たちの技術を学ぶための場であったりするわけです。さて、”フゾク”ではその場が果たしてどのくらいあるのだろうか。そのための時間をどれだけとってもらえたのだろうか。ここに”フゾク”の大きな落とし穴があるように思います。
”フゾク”は何が恵まれているのか
「研究のためのお金があり、設備も整い、選ばれた子供たちで授業をする。そういう恵まれた環境下でこの授業では、フゾクとしてははっきりいって0点です。」
非常に強烈なフロアの意見。笑 そこまで言わなくてもいいと思うけど。笑
でもたしかに”フゾク”は恵まれている。様々な学習を行うためのあらゆるモノ、カネ、ヒトが公立校よりはるかに揃っている。そういう意味では恵まれている。
でも、果たしてそこで教鞭をとる教師は恵まれているか?
マインクラフト ‐Education Edition‐ を使ったプログラミング教育
やはり来たか・・・。笑 と思う今日話題のプログラミング教育。
僕の学生時代の後輩が授業をしていました。班ごとに同じワールドに入って、ある課題について試行錯誤しながらバーチャルな世界でものづくりをしていく取り組み。
班ごとに、話し合い、作り、失敗し、問題を見つけて、また作る。
指導案を見ればきれいな流れであったが現実はずいぶん違っていた。
まず、バーチャル世界での取り組みは同じグループの子供の画面が見えず、同じワールドでも誰が、どこで、何をしているか、がわかりにくい。現実世界で同じことをすればすぐ隣で友達がある部品を作っていて、一人ではできない作業は「ちょっとここおさえてて」「セロハンテープが切れちゃったから貸してくれる?」「僕はこの作業が苦手だから〇〇ちゃん頼むね」「ここどうすればいいのかな?」という”協同”が生まれる。バーチャル世界においてこの”共同”の生まれにくさを感じた。
現実世界で友達がすぐ隣で何かをしていれば「何してるの?」ってすぐ聞けるし気づけるが、パソコンの画面に向かっているとその反応がものすごく鈍る。結果、個人作業で同じモノがたくさんできてしまうし、自分の意図が共有されなので、色々なところでミスが出てその修正のために時間を取られてしまう。それはそれで課題解決と思えばいいのかもしれないけど、そんなこと学校でなくても家でできる。グループで共同で話し合って、意見を出し合って試行錯誤して・・・というよさが全く生かされていない。
学校でできることって何だろうか
午後の講演会での話。
学習内容は塾でおさえてる。塾に行かなくとも学校の勉強でわからないことは教え方のうまい先生のYoutube動画で見れる。そんな時代が来ています。
家でも勉強できんじゃん?友達だってスカイプで話せんじゃん?あれ?じゃあ学校で何のために行くの・・・?古い校舎、古い机、道具もお金も人もそろってない。そんなところより家で勉強したほうがよくね?働く人のための託児所か?
学校のよさってなんだろうか。同じ空間に同じ年齢の色々な個性をもった友達がいる。友達どうして何かを作ったり、よさを認めあったりする。勉強もする。一緒に何かをするよさがある。
でも自分はこれだけでは弱すぎると思う。はっきり言って自分はいくらでも自宅に引きこもれる人だ。笑 教員で在宅ワーク事業が生まれたらすぐ飛びつくだろう。笑
家にいながら何でもできるようになる時代。学校はどうなってしまうのだろう。もう義務教育って必要ないのかな?そんなことを思いましたとさ。